昭和四十七年三月二日 朝の御理解
X御理解第七十五節 「人を殺すというが、心で殺すのが重い罪じゃ。
それが神の機感にかなわぬ。目に見えて殺すのは、お上があってそれぞれのお仕置きにあうが、心で殺すのは神が見ておるぞ。」
私はこの七十五節を、神様がすべてのことを見ておいででござる、聞いておいででござるという信心と頂くことだと思います。本当に神様が見てござるから、いわゆる、私達の心の底までも神様が見てござる。ですから、心の中のことでは誰でも知るまいと思うけれども、神様が見ておいででございますから、ですから、そこのところを信じて、疑わない生活、そこに信心生活が自ずと出来てくるし、ところが実際は仲々出来ません。
そこで七十四節にありますように、「可愛いと思う心が神心じゃ」というような、言わば、神心を目指しての信心修行が、必要になって参ります。神心になると、真とか、真心とか、慈悲とか、愛とか申しますが、そのすべてをね、一緒にしたものよりも、もっと素晴らしいものだと思いますね。
神心というのは、しかしそういう遠大な思想とか、信心とか申しますかに焦点を置いて、金光様の信心をしておるわけでございます。「可愛いと思う心が神心じゃ」と神心の発するところには、勿論、この七十五節にあります。心で人を殺すこともなからなければ、傷付けることもない。
成程神様が見ておいでであるということは、確信出来ます。心の動きが、おかげが変わってくる事実を皆さんが体験なさっておられるでしょう。本当におかげは和賀心であり、心次第であり、ほんの私の思い方をちょっと変えただけで、神様はこのようなおかげを下さる体験を、皆様、お持ちのことと思います。成程、神様が見ておいでだなあということがわかります。ですから、こうやって信心修行させて頂いておることでも、もうそれこそ、神に心を向けてくれば、一歩でも無駄にはさせんとおっしゃるくらいですから、見ておいでですね。神様へ心が向かうと。
もう二十年も昔だったでしょうか、各地区地区で共励会があっておりました。まだ私が出て歩いておりました時代でした。福岡の共励会へ参りますと、もう一晩中お話しをさせて貰え、そして朝の一番の電車に乗りまして来るわけでございます。もう今から寝んだっちゃ一時間余りしかありませんのでという時間まで話させて頂いて、それからまあ床を取って頂いて、一寸寝させて頂いて、一寸横にならせて頂いて、そしたら一番電車がゴーっと通って行った。しもうたと心の中に思っているのですけど、一番電車に乗って帰るつもりだったのです。
一番電車の音を聞いて、それでもやはり目が開かない位にあるのですが、そうですよね、寝んでおりませんものですが、それで又ウトウトしておりましたら、三代金光様のお声で、『神様が見ておいででございます』と厳しい声で、只もう金光様のお声そのままで、もう一ぺんに冷水をかけられた思いで、目がさめた思いで飛び起きましてね。そして神様に御礼を申し上げさせて頂いて、本当に私共がどのように修行させて頂いて、いや昨夜は寝てないということも神様は御承知なのだ。神様が受けておって下さるのだと思うたら、元気が出て、それから二時か三時になりましたでしょうけれども、起きあがって帰らせて頂きました。
「神様が見ておいででございます」と。だから、私共がそれを知っておりましても、やはりそういうことに接しませんと、そのパッと飛び上がって起きあがる元気が出ませんです。やはりそこの辺が稽古なのです。確かに神様が見ておいでの世界、神様が聞いておっての世界に住まわせて頂いておるから、勿論心の上に、人を殺すようなことがあってはならん。傷付けるようなことがあってはならん。問題はだから人ではない。自分自身の心も殺さんようにせなければいかんと思うのです。
自分の心が枯れ果てておりますとです、神様が見て下さっておるということがわかっておっても、聞き通しに聞いて下さっておるということがわかっていても、目が開かんのです。わかっている、不思議なことです。もう寝不足のために、心がいわゆるだれておるというか、枯れて来ております。神様が見ておいでだとわかっておっても、飛び起きる元気が生まれて来ないのです。心が生きておる時はそれが出来る。
ですから、どのようにかして自分の心を生かそう生かそうということ。だからここでは、「人が良いのと、人間が信心しておかげを受けるというのは別物だ」とおっしゃっておることがよくわかりますね。何とはなしに心の優しい良い人である。けど良い人であるだけではつまらん。そのよい心が生き生きとしておらねば、生きておらねば。そこに私共は一つ工夫が要るのじゃないでしょうか。心を如何にすれば生かすことが出来るか。その生きた心で神様に向かうというか、人を殺すというのではなくて、自分の心が例えば、真っ暗になっておる時には、心が死んでいる時も同様であり、イライラしておる時には、心が傷ついている時であり、腹が立ってたまらんという時には、相当深手を負うとる時なのです。心が、自分の心が傷付いておるから、今度は人までも傷付けよう、いや傷付ける結果になる。
ある年、北野の教会に話しに行った時、次々とお話を聞きに来ました。その中に、仲々理屈も一通り言われるし、どっちかちゅうと風雅人というのでしょうかね、何かもう私の言うことにいちいちケチをつけるのですよ。お話しがされん。それから私が神様にお願い
をさして頂いた。
そしたらね、ビールのコップですね、薄いコップあのコップがね、沢山並んでおるところのコップが一つ、こう立ち上がってからね、そのコップが他のコップをバチバチバチバチと破っておるのを頂いた。破った時には、自分の持っておったそのコップももろちんぢんに割れて仕舞うておるということという姿を頂きましてね。ははあの人はこういう人だなと思った。人の心を傷付けにゃ止まんという人、どうかケチを付けたりしてね、それで他のコップをこうやって破ってさるきよんなさる。ところが割った時には、自分のコップもちんぢんに割れてしまっていたということ。いわゆる昔から言う様にね、「人を呪はば穴二つ」ということである。
だから、人を憎むということは、また憎まれること。人を傷つけるということは、自分も傷つけること。いや自分自身も傷ついたが、人までも傷つけなければいけない結果になるということ。そんな人がありますね。それは、いつも自分の心がジガジガして、人が言うたらどうかそれに反発しなければ居られんと言う人は、そういう、心が傷ついている人です。如何にも傷つけて溜飲を下げているようであるけど、自分自身ももうちんぢんに割れている時です。もう自他共に助からない行き方なのですね、そういう方は。自他共に助かって行こう、それで私共がです、よい心というか、有難いそのよい心に有難いという心が伴うた、しかも生きんとした心、神心を目指して頂く、そういう精進の姿の中にです、いよいよ自分の心が和らいで生き生きとして、人の例えば傷ついておる者でも癒さなければいかん程しの働きになって来るのであります。
ですから、神が見ておるとこういう。それは私は信心していない人が信心者の中に沢山あると思う。信じずして、例えば神様を拝んでも、それは大したことではありませんですよね。それは金光様の御信心は御取次という一つの働き、まあ、御取次を頂いて、お願いをすると言うわけですから、おかげを受けるにしましてもです、だから本当なことになって来ない。神様を信ずると言うならば、神様が本当に見ておいでであるという信心しなければならない。そこから自ずと信心生活が出来て来るのだと思う。
もう今時は、そういうことはないでしょうけれどもね。椛目というところは、土居辺りと同じようにゴボウが昔は出来ておった。ちゃんとゴボウの中に入れる土は畑の中から持って来てある。真ん中を泥をいっぱい付けて、真中の汚いところを真中に入れて、そしてぐるりに良かとこだけ入れて、そのまま市場に出すとような風でした。とても神様が見ておいでてんなんてん、本当に少しでもわかっとるなら出来はしませんよね。成程そうすれば儲かるかも知りませんよね。騙しを入れる、けれども神様が見ておいでです。
私共子供の時分に、絣(かすり)を九州中に売りに回るというのが非常に流行ったことがありました。いわゆる久留米絣でしたから、久留米の言葉を使って、「久留米を持って来ました」と言うわけです。そして、久留米絣かはげ絣ですね。洗えばはげると言うわけです。久留米弁で絣を持ておるからやっぱりこれは本場の久留米絣をこう思う訳です。それで随分儲け出して、立派な家を建てた人達が、何軒も知っています。けれども、今それ
を思うてみますと、それは一つも繁昌になっとらんです。ここの近所の方は皆知っておられるでしょう。はげ絣を売ってきるきよんなさった人達、その又儲け出しておられた当時は、それこそ神様が見ておいでだから、その時はだましおうせると思ったのか。
私は本当に金光様の信心は、身につくと言うことはね、本当に教えを頂いておるからということと同時にです、教えを行ずると同時に、神様が天地が生きてござる。しかも生きて私共の心の底までも見ておって下さる。言うておることでも聞いておって下さる。信心が進めば進む程、例えば無駄口一つ、無駄口ではない仇言葉。仇口ですね、一つ言うこと、神様は厳しいです。
小倉の初代が御在世の頃ですね、日露戦争がございました。それで債券を買わなければならなかった。何か今で言うならば、隣組の長のようなことをなさってあった。それで債券の割当が来た。そこで桂先生が信者に「お国の為だから、お前達も買えよ」と奨められる。その時に、「いえ、もうあっちこっちから随分買っております」と言うた人があったんです。お金を沢山持った人だったんでしょう。そしたら、桂先生がおっしゃった。「俺んところのような貧乏教会でもこれこれ買ったぞ」と被仰った。そしたらその場で神様がね、「桂松平、汝にいつ貧乏させたか」と仰った。「仇口を叩くな」と仰った。神様がね、神様が聞き通しの証拠でしょうが。「汝にいつ貧乏させたか」とおっしゃった。
本当に私共はですね。心に例えば中を見通し、聞き通しでおありになるということをですね、信じさせて頂けば頂く程、私は信心生活が出来ると。けれどもどこにお粗末御無礼があるかわからんと、自分の心の中が、言わば疲れたり荒れ果てたりしている時にです、先程から言いますように、もう神様が見ておいでだから、さあここで一頑張りせんならんと。
例えば目が開かんごとある時にね、三代金光様は、私に『神様が見ておいででございます』とお言葉を頂いた時に、心がそれこそ一ぺんに甦った。それから私が感じましたことは、本当に私が昨夜寝らずにお話しをさして頂いたことを、神様が聞きとって下さる、見とって下さると思うから有難い。私共が日々信心をさして頂いておることは、人に見せるためではない。自分自身のため。しかもそれを神様が見ておって下さるから有難いのです。
一昨日、敬親会でした。丁度二十何名か集まって来ました。もうその日はどうしたものでしたか、もう皆が、ある意味でなら、不平不満の、「もう先生、もう血圧が高こうございますから、食べ物はもうでけんじゃろうと思います」と。「どうでもいっちょ血圧が下がるようにして下さい」というようなお願いやらですね。若い者がどうの、子供がどうの、孫が要らんもんにするの、嫁がどうの、といつもそんなでもないのに、ああこれは、神様の御都合だなと思いました。
それから黙って聞かせて頂いて、うんうんと私は聞いとった。そしたら一番最後に、久富組のばばしゃまが話しなさいました。先生もう私は朝からずーっと神様にこげんして神様に御礼の仕続けでございますと言わっしゃた。ばばしやまが一人、みんな、それから私
はそのことをとってお話しをさせて頂いたことでした。
そしたら昨日でした。ばばしゃまと、御祈念の後に、嫁の美津子さんが一緒に参って来ました。そして美津子さんがここでお届けされることがです、「先生、私は本当にこの頃思います。もう本当に久富組におかげを頂いておるのはね、ばばしゃまが、ずーっと朝から喜んで御礼ば言い続けとんなさるけん、おかげ頂きよるとじゃなかじゃろうかと思います」と昨日申しました。「もう風呂に入る時に拝まっしゃる、上がる時に拝まっしゃる、風呂槽ば拝まっしゃる、もう何でも拝みなさる。もうおかげを頂いて有難うございます。もうそれこそ一日中が有難い有難いで拝んでござる」と。「それで私は最近考える。ばばしゃまがずーっと喜んで頂くから、私共信心は出来んけれども、喜ばにゃ出来んようなおかげが頂けとるとじゃなかじゃろうかと思います」と。そりゃそうばの昨日はこげんじゃったと言うて話したことでした。
もう二十人のおばあさん達がみんな言うならば、もう七十にも八十にもなれば、ちっとは耳が遠うなったり目が薄うなったり、どこか痛い痒いかあるくさい。それと、そのもう、ただようなして下さいとか、困るとかということではいけんと。それこそ言うならば、ばば様が朝から晩まで「有難うございます、有難うございます」を言うてあるとがです、嫁御が期せずして気が付いた。「私の方でこうしておかげを頂かして貰っとるのは、ばばしゃまが、もう本当に、あんまり喜び過ぎなさるくらいの感じに頂いとったけれども、そりけんでおかげ頂きよるとじゃなからうかと思う」と言うております。
もう本当に確かにそうです。不平と不満と言えば、神様が見ておいでだから、又尚不平不足を言わにゃならんことが起こって来るのです。神様が聞いておって下さる証拠です。だから、「有難い有難い」と言うよりゃ、神様が聞いておいでですから、もう「有難い有難い」と言いよるもんに、尚有難いものにやろうごとあるのが人の常です、に神様の御心なのです。いわゆる道理に合う信心、一寸したものやったら本当にもの喜びする人は、又あげたいという気がするでしょう。
先日から小森尾から参って来る方、お漬物を持って見えました。それがとても美味しかです。私がここでちょっと「あのお漬物の美味しかったが、あれはどげな風にして漬けなさるですか」「それなら又持って来ましょう」そういうことになるとですよ。私は又持って来て貰うために言いよるとじゃないけれども、喜ばれると又あげましょうと言う気が起こるです。言わば道理です。
ですから本気で私共がですね、喜ばせて頂く稽古、いわゆる「可愛いと思う心が神心」と仰る。いよいよ神心、仲々神心とは出来ませんですが、神心になると、私は信心の稽古。人を殺すと言うとです。人を殺す前に自分を殺してもならん。人を傷つけてはならん。自分の心は喜びで一杯になっていなければいかん。
この七十五節は、殺すとか、生かすとか、重い罪じゃとかいう御教えが出ておりますけど、この御教えは、神様のすべてのことと見ておいでである、聞いておいでであるということを教えてある御教えである。
だから、そういう世界に住んでいる私達と言う、信ずる心を以ての信ずる生活が信心生活だと思います。それでも、私共は生身を持っていることですから、どこにお粗末御無礼があるかわかりません。心がゆるんで来たり、又は心が荒んだり致します。そこんところを私達が修行によって生き生きとしてくる心、そういう時にはいよいよ本気で、水の一つもかぶってみるくらいな修行させて貰うと、だれておった心がシャンと致します。そのシャンとした心を神様へ向かう、いわゆる神へ向かう、そういう心の時に、人を責めたり腹が立ったりは勿論なくなりましょう。自分の心も生き生きとして来ると、人の心にまで生き生きとした心を、伝えるようなおかげが受けられるのです。どうぞ。